ニングタ・ベイレ (満文:ᠨᡳᠩᡤᡠᡨᠠᠪᡝᡳᠯᡝ, 転写:ningguta beile, 漢文:寧古塔貝勒/ 六王) は、都督フマンの六人の子に対する尊称。
概要
『清實錄』に拠れば、都督フマン (清興祖) に六子あり、この六人をニングタ・ベイレと呼んだ。第四子ギョチャンガ (ヌルハチ祖父) が拠ったヘトゥアラを中心として、近きは5里約2.9km、遠きは20里約11.5kmの距離に五人の兄弟がそれぞれ城を構えて分住したという。
名称
満洲語「寧古塔ningguta」は数の「六」を表す「ninggun」に「ta」がついた「ninggun ta」の約であるというのが通説であり、「ta」は一説には接尾辞「-da」の変化形で、首領、頭目などの意を表す。「貝勒beile」が爵位の一つに組み込まれるのは清代のことであり、それより早いヌルハチの時代には尊称として「王」の意を表した。従って「寧古塔ningguta 貝勒beile」はまた「六ningguta王beile」とも表記される。この考えに拠れば、ニングタ・ベイレの称は、一つの地域に六王が分住したことに因むということになる。
稻葉岩吉はこれに対し、別の説を挙げる。李氏朝鮮から派遣された申忠一なる人物がヌルハチの初めての居城フェ・アラを訪れた際に、その城の構造や住まう人の構成などを委細に記したが、その記述の中に「林古打」という河川の名称がみえる。この「林古打língǔdǎ」は明らかに「寧古塔nínggǔtǎ」の対音であり、同河川は現在の蘇子河を指していることから、当時蘇子河一帯を「林古打」と呼んでいたと推論することができる。従って、ニングタなる呼称は実際はその一帯を指す地名であって、都督フマン以前の建州部の名酋がニングタ・ベイレと呼ばれたのが相伝し、フマンの六子もそれに倣ってニングタ・ベイレと呼ばれ、たまたま「六ninggun」がその地名と一致したにすぎないとする。
歴史
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考証
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脚註
典拠
脚註
文献
實錄
*中央研究院歴史語言研究所版 (1937年刊行)
- 覚羅氏勒德洪『太祖高皇帝實錄』崇徳元年1636 (漢)
- 編者不詳『滿洲實錄』乾隆46年1781 (漢)
- 『ᠮᠠᠨᠵᡠ ᡳ ᠶᠠᡵᡤᡳᠶᠠᠨ ᡴᠣᠣᠯᡳmanju i yargiyan kooli』乾隆46年1781 (満) *今西春秋版
- 今西春秋『満和蒙和対訳 満洲実録』刀水書房, 昭和13年1938
- 『ᠮᠠᠨᠵᡠ ᡳ ᠶᠠᡵᡤᡳᠶᠠᠨ ᡴᠣᠣᠯᡳmanju i yargiyan kooli』乾隆46年1781 (満) *今西春秋版
史書
- 稻葉岩吉『清朝全史』上巻, 早稲田大学出版部, 大正3年1914
- 趙爾巽『清史稿』清史館, 民国17年1928 (漢) *中華書局版
- 孟森『清朝前紀』民国19年1930 (漢) *商務印書館版
地理書
- 『興京二道河子舊老城』建国大學研究院, 康徳6年1939
論文
- 『一橋論叢』14 (2) 1944, 中山 八郎「淸初ヌルハチ王國の統治機構」



