リチャード・エリオット(英語: Richard Eliot、1694年10月28日洗礼 – 1748年11月19日)は、グレートブリテン王国の外交官、政治家。1733年から1748年まで庶民院議員を務めた。
生涯
海軍軍人ウィリアム・エリオット(William Eliot、1694年7月2日以降没、ニコラス・エリオットの息子)と妻アン(Anne、旧姓ウィリアムズ(Williams)、1723年4月11日没、ローレンス・ウィリアムズの娘)の息子として生まれ、1694年10月28日にセント・ジャーマンズで洗礼を受けた。兄に庶民院議員エドワード・エリオットがいる。1712年7月15日にオックスフォード大学ベリオール・カレッジに入学、1716年にM.A.の学位を修得した。
1719年に在スウェーデンイギリス大使館の秘書官(年収200ポンド)に任命された。1722年9月18日に兄エドワードが死去すると、その息子でわずか4歳のジェームズ・エリオット(1718年ごろ – 1742年11月24日)に代わって領地を管理、懐中選挙区であるセント・ジャーマンズ選挙区の管理も行った。1742年にジェームズが死去するとポート・エリオットの領地を継承した。官職では1722年より内国消費税徴税官(commissioner of excise)を務め、1729年5月に退任した後は1730年1月から1738年までコーンウォール公領測量長官(surveyor general of the Duchy of Cornwall)を、1738年3月から1748年11月までコーンウォール公領歳入長官(receiver general of the Duchy of Cornwall)を務めた。
1733年1月、セント・ジャーマンズ選挙区の補欠選挙に当選して庶民院議員に就任した。1734年イギリス総選挙でリスカード選挙区に鞍替えして再選、1741年イギリス総選挙でもリスカード選挙区で再選した後、1747年イギリス総選挙ではセント・ジャーマンズ選挙区で当選した。議会でははじめ与党に属し、1733年に物品税法案に賛成票を投じ、1734年に七年議会法廃止法案に反対票を投じたが、1738年にウェールズ公フレデリック・ルイスとともに野党に転じ、1739年にパルド協定に反対票を投じた。1742年に首相ロバート・ウォルポールが辞任した後は与党に転じたが、1747年に再びウェールズ公とともに野党に転じた。
1748年11月19日に死去、12月3日にセント・ジャーマンズで埋葬された。長男エドワードが遺産を継承した。死去時点で財政難であり、妻ハリオットはその理由をコーンウォール公領の官職での支出に帰した。
家族
1726年3月4日、ハリオット・クラッグス(Harriot Craggs、1713年2月 – 1769年2月1日埋葬、南部担当国務大臣ジェームズ・クラッグスの庶出の娘)と結婚、3男6女をもうけた。
- エドワード(1727年7月8日 – 1804年2月17日) - 初代エリオット男爵
- アン(1729年11月17日 ポート・エリオット – 1816年2月と4月の間) - 1751年11月29日、ヒュー・ボンフォイ(1762年3月12日没)と結婚、子供あり
- ハリオット(1731年12月15日 – 1776年1月27日埋葬) - 1753年4月3日、ペンドック・ニール(Pendock Neale、1768年11月と1773年3月の間に没)と結婚
- リチャード(1733年7月16日 セント・ジャーマンズ – 1747年4月28日 キンセール) - 1744年よりジョン・ハミルトン閣下が艦長を務める戦列艦オーガスタに乗船しており、海軍軍人となる予定だったが、1747年にキンセールで死去した
- ヘスター(1735年3月11日 – 1736年4月12日)
- オーガスタ(1737年6月10日 – 1737年11月27日埋葬 セント・ジャーマンズ)
- エリザベス(1739年5月3日 セント・ジャーマンズ – 1771年8月1日) - 1759年8月8日、チャールズ・コックス(後の初代サマーズ男爵)と結婚、子供あり
- ジョン(1741年7月12日 – 1769年6月12日 西フロリダ) - 海軍軍人、西フロリダ総督
- キャサリン(Catharine、1743年10月29日 ポート・エリオット – 1798年8月3日埋葬 セント・ジャーマンズ)
出典
外部リンク
- リチャード・エリオット - ナショナル・ポートレート・ギャラリー (英語)
- "リチャード・エリオットの関連資料一覧" (英語). イギリス国立公文書館.



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