拓跋 猗㐌(たくばつ いい、拼音:Tuòbá Yīyí、267年 - 305年)は、鮮卑族の中部拓跋部の大人(たいじん:部族長)。拓跋沙漠汗の長男で、弟には拓跋猗盧・拓跋弗、子には拓跋普根・拓跋賀傉・拓跋紇那がいる。『宋書』では「索頭単于猗駞(いだ)」と書かれる。北魏の道武帝より桓皇帝の諡号を追贈された。

生涯

風貌に優れ、体格は立派であった。体格が立派すぎて、馬に乗っても全て耐えられず潰れてしまった。そのため、いつも大牛が引く車に乗っていた。

元康5年(295年)、叔父である拓跋禄官が大人となると、拓跋部を3分割し、拓跋猗㐌は代郡参合陂の北、中部拓跋部を統治した。

代の住民の衛操が、義子の衛雄と同郡の箕澹を引き連れ、拓跋部へ移住した。彼は拓跋猗㐌へ「晋の人間を移住させましょう。猗盧殿が招聘すれば彼らはやって来ます」と進言した。拓跋猗㐌は大いに喜び、彼に政務全般を任せた。以来、晋から大勢の人間が移住して来るようになった。

元康7年(297年)、拓跋猗㐌は漠北を渡って西の諸国を攻略した。

永寧元年(301年)、拓跋猗㐌は5年間に及ぶ西略から帰国し、20余国を帰順させた。

永安元年(304年)、匈奴の劉淵が離石で挙兵し、自ら漢王と号した。7月、并州刺史の司馬騰は拓跋部に援軍を要請した。拓跋猗㐌は10万騎余りを率い、拓跋猗盧・拓跋禄官もこれに呼応し、西河郡・上党郡で劉淵の軍を大破させた。その後、汾東にて司馬騰と盟約を交わして帰った。その後、衛雄を参合陂以西へ派遣すると、東屋の石を積み上げて石碑を建て今回の軍事行動を刻んだ。

永興2年(305年)6月、劉淵は司馬騰を攻め、司馬騰はまた援軍を要請した。衛操が出兵を勧めると、拓跋猗㐌は軽騎数千でこれを救い、劉淵の配下の綦毋豚を斬る。劉淵は蒲子に南走した。晋は拓跋猗㐌に大単于・紫綬金印を下賜した。

同年同月、拓跋猗㐌は死去した。39歳であった。中部拓跋部は子の拓跋普根が後を継いで統治した。

拓跋猗㐌の死後、衛操は大邗城の南に石碑を建て、拓跋猗㐌の功績を称えた。

逸話

拓跋猗㐌は以前、一度食中毒にかかったことがあった。彼はたまらず嘔吐してしまったが、そこから楡の樹が生えてきた。当時参合陂には楡の樹がなかったため、当時の人は大変驚き、この話は広く伝播したという。

宗室


    • 惟氏
    • 拓跋普根(長男)
    • 拓跋賀傉(次男)
    • 拓跋紇那(三男)

注釈

参考文献

  • 『宋書』(列伝第五十五索虜)
  • 『魏書』(帝紀第一)
  • 『北史』(魏本紀第一)
  • 『通鑑紀事本末』十六巻

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