白川 晴一(しらかわ せいいち、1902年 - 1952年7月28日)は、昭和時代の労働運動家。日本共産党中央委員。
経歴
愛媛県温泉郡和気村(現松山市)生まれ。愛媛県立松山中学校(現愛媛県立松山東高校)在学時に重松鶴之助(画家)、伊丹万作(映画監督)、伊藤大輔(映画監督)、中村草田男(俳人)らと同人雑誌『楽天』を発行。5年生のとき中退し、重松と京都・東京を放浪後、東京の感化院で働く。1923年の関東大震災直前に結核のため帰郷、左翼運動に関わる。回復後に再び上京するが、1926年に画業に行き詰った伊丹を援けるため、重松と3人で松山市三番町におでん屋・瓢太郎を開業。この時期に同郷の岩田義道と出会い、その影響で労働運動の世界に入る。労農党愛媛県連書記、1927年上京して労農党本部書記、1928年から雑誌『政治批判』の編集に携わる。1931年重松とともに日本共産党に入党、神奈川地方オルグ、関東地方委員会書記、東京市委員会書記などを務める。1932年9月に検挙され、治安維持法違反で懲役刑を受け、1938年出獄。翌年から敗戦まで久保寅吉、途中から渡辺四郎と3人で夜店屋などをして生計を立てる。
敗戦後の1945年10月に渡辺とともに再入党。党のオルグとなり、「ストライキマンの典型」といわれた。東京都委員会の再建に参加し、東京都委員長、関東地方委員会議長などを歴任。1947年12月の第6回党大会で中央委員、1950年1月の第18回拡大中央委員会総会で金天海に代わり政治局員、教育宣伝部長。同年6月6日GHQにより日共中央委員24人全員の公職追放令が出される。「五〇年問題」では所感派に属したが、志田重男からは疎外された。結核の悪化で清瀬の病院に入院、50歳の若さで亡くなった。
脚注
関連文献
- 黒木利克『生活保護――最近の二大攻撃と其の分析』(中央法規出版[中央法規文庫]、1955年)
- 敷村寛治『風の碑――白川晴一とその友人たち』(光陽出版社、2004年)
外部リンク
- 風の碑(いしぶみ) | 光陽出版社
- 「花へんろ」に出てくる重松鶴之助とは? 2005年2月23日(水)「しんぶん赤旗」




