小田嶋 正邦(おだじま まさくに、1979年4月12日 - )は、神奈川県相模原市出身の元プロ野球選手、指導者。

旧姓は郡田(こおりだ)。

経歴

プロ入り前

相模原シニアから進学した東海大山形高校1年生の1995年、第77回全国選手権出場を果たす。卒業後は東海大学へ進学。上級生になるまでは打撃を生かして一塁手、指名打者で出場した。4年時に全日本大学野球選手権で優勝。首都大学リーグ通算71試合出場、272打数83安打、打率.305、5本塁打、61打点。1999年春季リーグ首位打者。ベストナイン4回(捕手、一塁手、指名打者)。2001年には日米大学野球代表選手に選出された。

同年のドラフト会議で横浜ベイスターズから3巡目で指名を受けて入団。

横浜時代

ルーキーイヤーの2002年は4試合に出場し、プロ初ヒットを放った。

2003年7月18日の対読売ジャイアンツ戦で、11回裏に鴨志田貴司から球団史上初の代打サヨナラ満塁本塁打を放つ。これを機に、当時の山下大輔監督が小田嶋の代打起用にこだわるようになった。現役引退時にはこの本塁打がプロでの一番の思い出だったと語っている。

2006年に持ち前の長打力を生かす為、内野手に転向。一軍では打率.205と苦しむも3本のホームランを放つなど長打力を見せた。オフに仁志敏久 金銭とのトレードで読売ジャイアンツへ移籍。

巨人時代

引き続き内野手として登録された。2007年は開幕一軍入りを果たすも、厚い選手層の中で一軍での出番は少なかった。

2008年は二軍で59試合に出場して188打数54安打で打率.287、11本塁打、40打点を記録。

2009年は二軍で79試合に出場して220打数74安打で打率.336、14本塁打、35打点と安定した成績を残したが、一軍では甘い球を打てず、ボール球で凡退というケースが目立ち、力を発揮できなかった。

2010年は一軍に14試合に出場。この年は再び捕手としての守備練習を行い、6月6日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦では代打起用の後、一軍戦では5年ぶりに捕手として出場した。オフの11月4日に現役引退を発表、同日、任意引退選手公示。同時にブルペン捕手へ転身。2019年からジャイアンツのスカウトに就任したが、同年限りで退団。2024年からジャイアンツ U15ジュニアユースの指導者に就任 (担当:バッテリー)。

人物

横浜時代のあだ名は「オダジーニ」、バッティングフォームがロベルト・ペタジーニ(元ヤクルト・巨人・ソフトバンク)の力強いバッティングに似ていたことから捩って呼ばれていた。

2006年夏に小田嶋専用の応援歌が制作されたが、その年のオフに巨人へ移籍したため僅か3ヶ月間しか使用されず、球場では3回しか流れなかった。この応援歌は2017年度より宮﨑敏郎の応援歌に流用される(但しキーが2つ低い変ホ長調である)。

ボールを芯でとらえた際の飛距離は素晴らしく、横浜時代は小田嶋が打撃練習をする際、当時のチームメイトの多村仁志が必ず見学していたという。

大学の同期に平野恵一がおり、1年下の久保裕也(巨人時代も同僚)、小林正人とはバッテリーを組んだ。

詳細情報

年度別打撃成績

年度別守備成績

記録

  • 初出場:2002年10月2日、対広島東洋カープ25回戦(広島市民球場)、8回表に谷口邦幸の代打として出場
  • 初打席:同上、8回表に苫米地鉄人の前に中飛
  • 初安打:2003年5月18日、対ヤクルトスワローズ9回戦(明治神宮野球場)、9回表に成本年秀から中前安打
  • 初先発出場:2003年5月25日、対読売ジャイアンツ11回戦(横浜スタジアム)、8番・捕手として先発出場
  • 初本塁打・初打点:2003年7月2日、対ヤクルトスワローズ16回戦(長野オリンピックスタジアム)、8回裏に石川雅規から中越ソロ

背番号

  • 26 (2002年 - 2006年)
  • 45 (2007年 - 2010年)
  • 213 (2011年 - 2018年)

出典

関連項目

  • 神奈川県出身の人物一覧
  • 東海大学の人物一覧
  • 横浜DeNAベイスターズの選手一覧
  • 読売ジャイアンツの選手一覧

外部リンク

  • 個人年度別成績 小田嶋正邦 - NPB.jp 日本野球機構

駿河屋 B07W147[白]:小田嶋 正邦(ベースボールヒーローズ)

駿河屋 469 : 小田嶋正邦「横浜ベイスターズ」(BBM)

駿河屋 37:鈴木 尚典(スポーツ)

小田嶋 株式会社サポートライフ・結

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