杉坊 照算(すぎのぼう しょうさん、? - 天正13年〈1585年〉)は、安土桃山時代の人物。紀伊国根来寺の子院・杉坊の院主。津田小監物算長の次男で、兄に津田監物算正、弟に津田自由斎がいる。院名の杉坊は、杉之坊杉の坊杉ノ坊とも書かれる。

略歴

杉坊明算の跡を継ぎ、根来寺の有力子院・杉坊の院主となる。

天正5年(1577年)、織田信長が紀伊の雑賀衆を攻めた際、根来寺は杉坊(照算)が中心となって信長へと味方した(雑賀攻め)。同年2月、上洛した照算は信長に協力を申し出、現地の様子を伝えている。織田軍の雑賀侵攻時、照算はその案内を務め、3月には織田信張とともに和泉佐野城の守備を命じられた。根来寺はこの後も信長に従い、紀伊・和泉・河内においてその勢力を維持した。

天正8年(1580年)、本願寺顕如が信長と講和し、大坂から紀伊雑賀の鷺森に移る。同年4月、鷺森下向に尽力したとして、顕如から泉識坊・杉坊照算に対して礼が伝えられた。同年6月、雑賀衆の土橋春継・胤継と根来寺の泉識坊快厳・杉坊照算は、顕如を支持し、大坂に残る教如(顕如の子)に味方しないとする起請文を織田方へ提出している。

天正9年(1581年)に京都で行われた馬揃えには、他の根来寺衆らとともに杉坊(照算)も参加している。

天正10年(1582年)に信長が死去すると、根来寺は羽柴秀吉と対立した。天正11年(1583年)、根来寺や粉河寺・雑賀衆などの「紀州一揆」が和泉へ攻め入り、岸和田城に在城する秀吉家臣・中村一氏と戦っているが、「紀州一揆」の大将の1人として杉坊(照算)の名があった(『中村一氏記』)。

天正13年(1585年)3月、羽柴秀吉の大軍が和泉にある根来・雑賀方の城を落城させ、紀伊へと攻め入る(紀州征伐)。3月23日、放火または自焼により、根来寺は一部の堂塔を残して焼け落ちた。『津田家系譜』によると照算は、この天正13年(1585年)に討死したという。

脚注

注釈

出典

参考文献

  • 太田宏一「津田流砲術と奥弥兵衛について」『和歌山市立博物館研究紀要』第19号、2005年。 
  • 谷口克広『織田信長家臣人名辞典 第2版』吉川弘文館、2010年。ISBN 978-4-642-01457-1。 
  • 廣田浩治 著「杉坊明算・照算―軍事を担った根来寺の院家」、天野忠幸 編『戦国武将列伝7 畿内編 上』戎光祥出版、2022年。ISBN 978-4-86403-446-3。 
  • 和歌山市史編纂委員会 編『和歌山市史 第1巻 自然・原始・古代・中世』和歌山市、1991年。全国書誌番号:92017003。 

関連項目

  • 根来衆

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